日本百名城巡り(高遠城・躑躅が崎館・甲府城)2022/8/27

東京出張を利用し今回は長野・山梨でお城巡りです。

目標はJR中央線沿いに位置する高遠城、躑躅崎館、甲府城の3つです。

新宿から特急終点駅に位置する松本城も行きたかったのですが時間を考えるとどうしても難しいので外しました。

高遠城の最寄りは茅野駅なのですがここには何もなさそうなので新宿から特急に乗り上諏訪まで行きました。

諏訪には少し縁がありまして新卒で入社した某商工ローン勤務時代は諏訪に配属され半年だけ住んでました。ブラックすぎて半年で退職しております(笑)

夜ごはんは「蛍」というお店で頂きました。馬刺しと蕎麦が美味しかったです。

蛍 (上諏訪/居酒屋)
★★★☆☆3.10 ■予算(夜):¥3,000~¥3,999
馬刺し
蕎麦

翌朝は上諏訪駅から茅野駅まで電車で移動。ここでレンタカーを借りて杖突峠を越えて約一時間走り高遠城址公園へ向かいます。

上諏訪駅構内に温泉!

当時も存在していたのは記憶してますが上諏訪駅構内には足湯があります。改札前の売店には卵も販売していますので温泉卵を作って食べることも可能です。

足湯に浸かって電車を待ちます(笑)

レンタカー屋が開店するまでに茅野駅で立ち食いソバを朝ごはんに頂きます。さすが長野県、立ち食いソバも美味いです。

高遠城へ到着

天下第一の桜高遠城址と書かれた看板があり、そろそろ到着のはずです。

ナビが目的地に到着しました。という地点が山の中で何も城らしきものは見当たりません。

山城跡地ではよくあることなので百名城スタンプ帳を見てスタンプが押せる高遠町歴史博物館へ向かいスタンプをゲット。

この城は桜がないときは誰も来ないのかな。

織田と武田の戦いの激戦地だっただけにこの城で切腹した武田勝頼の弟、仁科盛信を使ったアピールができればいいと思うんですけどね。

歴史博物館の隣に絵島囲い屋敷がありました。そういえばそうだったかって感じです。

絵島は7代将軍家宣時代の大奥の女中ですが歌舞伎役者生島新五郎と密会をしたとしてこの地に流されます。

写真には残してないのですが当時の高遠藩主が絵島をどのように扱うか事細かに幕府に質問した内容が現地にありました。

煙草を吸いたい。といわれたらどうしたらいいかというようなことまで細かいことです。

高遠城概要
住所長野県伊那市高遠町東高遠城跡
入場料無料
スタンプ設置場所伊那市立高遠町歴史博物館
開館時間9時~17時(入館は16時30分まで)
休館日月曜日(月曜が祝日の場合翌日が休館日)
祝日の翌日,12/28~1/3
料金一般400円 小中学生200円

次の目的とは甲府です。乗る電車が決まっているので高遠城に滞在する時間はあまりありません。

茅野から甲府へ特急に乗って移動です。

甲府駅から躑躅が崎館は直線で北へ約2㎞。迷わずタクシーに乗ります。

運ちゃんに躑躅が崎館と言っても通じないので武田神社と言い直すと分かってくれました。通じないのかなーって感じです。

人は城、人は石垣、人は堀

躑躅が崎館に着くと堀はある。石垣もある。ここは城だったんだなと思いました。詰城として背後に続日本百名城の要害山城というのがあります。

普通のお城並みのお堀です。

武田神社の南側に「かぶとや」というお土産屋があります。なかなかマニアックな店で寄ってみてもいいんではないでしょうか。

武田信玄像

甲府駅のすぐ南側に甲府城がありますが駅を南に出ると武田信玄公の銅像がありました。渋谷の待ち合わせがハチ公前なら甲府の待ち合わせ場所は信玄公前なんでしょうか。

武田神社概要
鎮座地甲府市古府中町2611
055-252-2609
入場料無料
スタンプ設置場所神札集布授与所
甲府城へ向かいます。

甲府城。。。武田家滅亡後に築城されているんでしょうが、あんまり聞きなれない城だなあって思いながら向かいます。

戊辰戦争時に官軍板垣退助と鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸にもどった新選組・近藤勇が奪取を目指した城だったかなと。

ウィキペディアで調べてみるとやはりそうでした。

ただ江戸の初期は将軍家の血縁(親藩)が大名として統治してたんですね。

そして5代将軍綱吉の側用人として権勢をふるった柳沢吉保が統治したのちは甲府は天領(幕府領)として明治維新を迎えます。

立派な石垣です

当日は30度越えで暑くて歩くのもなかなか大変です。

城の北側から入城したのですがスタンプは南側、舞鶴城公園管理事務所に行ってしまいました。北東の稲荷櫓にもあったようです。

天守台も見事です。天守は建てられていないそうな。

以下、パンフレットから転記

天正10年(1582年)戦国大名の武田氏滅亡後、甲斐国は、織田信長の領国となり、本能寺の変の後は徳川家康の支配下に置かれました。

その後、家康が平岩親吉に命じ、甲府城の築城が開始されましたが、家康が関東移封となると、豊臣秀吉の命により羽柴秀勝・加藤光泰らが築城を進め、浅野長政・幸長親子の手により完成を見ました。

慶長5年(1600年)の関ケ原の戦い以降は再び徳川家の城となり、幕末まで城の歴史は存続しました。舞鶴城は江戸時代の初め、将軍家一門が城主となる特別な城でしたが、宝永元年(1704年)徳川綱豊が第5代将軍徳川綱吉の養子となり江戸城へ移り住むと、柳沢吉保が城主となり、大名の城として最も整備され、城下町とともに大きく発展しました。しかし柳沢氏が大和郡山城主として転封されると、甲斐国は幕府直轄地となり、舞鶴城は甲府勤番の支配下に置かれることとなりました。その間、享保年間の大火により本丸御殿や銅門などを焼失、壮麗な姿は失われていきました。

明治時代になると廃城となり、明治10年頃には城内の主な建物は取り壊され、勧業試験場として利用が始まるなど、新たな歴史を踏み出しました。明治30年(1897)には、中央線敷設に伴い屋形曲輪、清水曲輪の解体が決定され、甲府停車場、すなわち今の甲府駅の建設地となっていきました。明治37年(1904)に本丸周辺を舞鶴公園として開放、昭和5年(1930)には、甲府中学校の移転に伴い、県庁舎や県会議事堂が楽屋曲輪跡に移り、同時に西側、南側の堀は完全に埋められ、城跡はほぼ現在と同じ景観になりました。

甲府城概要

開館時間午前9時から午後4時30分まで(入館は午後4時まで)
スタンプ設置場所①甲府城稲荷櫓②舞鶴城公園管理事務所
入場料無料
休館日月曜日(祝日は開館)、祝日の翌日、年末年始(12/29~1/3)
お問い合わせ舞鶴城公園管理事務所
甲府市丸の内1丁目5-4
055-227-6179
ほうとう食べずに帰る。

山梨に来たからにはほうとうを食べたかったんですが飛行機に乗る時間を考えるとどうしても時間がありません。

泣く泣く弁当を買って特急に乗り込むも人身事故で遅れ予定の飛行機に乗れず便を遅らせて帰路につきます。

お土産は迷わず信玄餅ですね。時期的にブドウ農園がたくさんありました。

それではまた。

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